2009年12月30日水曜日

兵庫県 竹田城跡より龍野へ(その1)

ずっと以前より行って見たい城がありました。
正確に言うと城、ではなく城跡です。
兵庫県朝来市和田山町・竹田城跡。
映画のロケでも利用された事で有名な処です。
写真などで見る機会も多いのでかえって「行こう!」とは
思わないままずるずる年月が過ぎてしまいました。

年も押し迫った12月30日早朝、車で出発。
高速舞鶴道より北近畿豊岡自動車道へ乗り換えて和田山方面へ。
地道に降りたところでちょっと迷走しましたが8時少し前には無事到着。

まず、城跡の対面に位置する「立雲峡」を目指します。
入り口の道が細く、かつややこしいホテルの看板があったりで
ここでも迷走を重ねます。ようやく道を探し当ててセカンドギアで
上り始めます。対向車が来たら終わりだ・・・と思いつつも
なんとか駐車場にたどり着きました。城マニア・オタク・ファンの
方々が思い思いにポジション取りをしてカメラを構えていらっしゃいます。
この年の瀬、寒い中で何か静かな熱気が漂っている様でもあります。

雲海が出れば雲の中に城跡が浮かび実に幻想的な風景となります。
ただ、この1週間は気候的にもだめだな、と思ってはいました。
案の定、雲も霧もありません。初めてぽっと来て雲海を見ようとはあつかましいでしょう。
しかし、冬の弱い朝日にうっすらと照らされた城跡は微妙な陰影を構成しながら
静かに佇んでいます。
「紫雲たなびく」と言うのはこのことでしょうか。
双眼鏡を取り出して石垣をじっくり観察します。




←遠景で分かりづらいのですが・・・雰囲気はありすぎるほどありました。
さて、立雲峡は的場山の中腹にあるビューポイントです。
せっかくだから頂上踏破をもくろみましたが愛宕神社まで登って
ピークは更に奥の奥にあることを確認。しかも結構な急傾斜。
諦めて降ります。

さて、ついに竹田城跡のふもとの駐車場に来ました。
「近道」の表示につられて進んだらこれがとんでもない急勾配。
こんな処を甲冑で身を固めて武器持って這い上がって戦うのかあ・・・!
昔の人の体力・胆力には驚かされます。

ようやく這い上がると目前に重厚な石垣が迫ります。
正直、ここまでしっかりとした構造で残っているとは思いませんでした。
初期は単なる砦だったのが石垣技術が進歩してからいわゆる「城」を構築したとか。
建物が失われたため、本丸・二の丸・大手門などの基礎や配置が
見えやすくなっています。
なによりも「穴太積み(あのうつみ)」と言われる技法で構築された石垣に迫力を感じます。
石にもたれかかっていると何とも言えない安心感、安定感があり
ずっとしがみついていたい気分です。

しかして寒い・・・当然、吹きっさらしなのでそうそうのんびりと石に張り付いている
わけにも行きません。
城跡のあちこちに桜の木が見えます。春には祭りも催される様子です。
時期を変えてまた来ましょう。再訪したい気にさせられる場所です。


www5.nkansai.ne.jp/off/wakk 和田山町観光協会HP





<竹田城に関する説明文(看板より一部抜粋・改変して転記)>
竹田城は嘉吉年間(1441-43)に、守護大名の山名持豊(宋全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせた城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。最近の調査によると、現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、慶長五年(1600年)の廃城時にごく近い時代と考えられている。
竹田城の縄張りは、最高所の天主台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手門を防御する枡形部に沿う北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天主台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。
規模は南北約400m、東西約100mである。(昭和18年9月8日、国史跡に指定)

竹田城の石垣は構築技法から見て、穴太積み(あのうつみ)を採用している。穴太積みとは近江国(現滋賀県)
坂本を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積みかたから言えば野面積み(のづらつみ)石垣と言えよう。野面積みとは加工を施さない自然石をそのまま積んだもので、隙間が多く、一見して粗雑に見えるが水はけがよく、崩れを防ぐ。
竹田城の場合、石垣が築かれてから約400年が経つがね一部の復元箇所を除いて当時のままの姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。



朝来駅前に来ました。
年末なので駅舎内の観光案内はしまっています。
替わりに、客待ちをしていたタクシーの運転手さんがパンフレットをくれました。
ありがとうございます。
駅前より線路をくぐって寺町方面へ向かいます。
疎水が引かれてこじんまりとした静かな町並みです。
それでも平成16年には台風による土砂災害があったようで
あちこちにその傷跡が残っているのが見受けられます。
竹田城がそびえる山を背中にしょっている形なので
ひとたび自然災害が起こると厳しいものがあるのでしょう。
逆に、山ごと城跡を守ってきた和田山の人たちの永い永い努力に頭が下がります。

表来神社というお社が現われました。
結構な急傾斜の階段の上にあるので尻込みしますが
「相撲桟敷がある」との情報につられてお参りします。
「相撲桟敷・・・・?」
上がってみると、本殿前の広場にむき出しの土俵がありブルーシートが掛けられています。
なんだ・・・興ざめだなあ・・・と思って目を移すと
その土俵を取り囲む形で石垣で段が組んであります。これが「桟敷」です。
しかも桟敷の対面には大きな舞台が残っています。
かなり古くて梁は歪み床も危なげですが、とにかく大きな建物で存在感があります。
つまりは神事、庶民の娯楽として相撲、歌舞伎が奉納される、
それを見物するためのスタジアムが「相撲桟敷」なのですね。
同じような構造物を小豆島で見たことがあります。
桟敷席は各家によって座る位置、順番が決められていて
現在でも固く守られていると聞きましたがこの朝来の地でも同じなのでしょうか。




<表米神社の説明文(和田山市教育委員会の看板を転記)>
表米宿彌命(ひょうまいすくねのみこと)を祀る。宿彌命は赤淵神社(放田),俵米神社(久世田)の祭神でもあり、丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した武人である。神社は宝永年間(1704-1710)にこの地へうつされたと伝えられている。本殿は三間社流造で千鳥破風を有している。また、干支を周囲にめぐらせており、その彫刻はすばらしい。

<相撲桟敷の説明文(同上)>
中央の土俵を囲んで、半円形に6段に石が積まれている。土俵を越えた正面には舞台もあって、歌舞伎の見物にも供ぜられたものと考えられる。江戸末期並びに明治年間の座席割が各一枚残っており、その使用の実態を立証することができる。この種の半円形石積み段型桟敷は、長門市赤碕山の楽桟敷(国指定)を除いて知られた例がなく、たいへん貴重なものである。(昭和45年3月30日 県指定)


朝から歩き回ったのでおなかがすきました。
道の駅を目指して移動します。

今晩は姫路・塩田温泉に宿泊の予定です。

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