2009年12月31日木曜日

竹田城跡より龍野へ(その2)


塩田温泉は静かで極上の宿でした。(ラベル「極楽非道!温泉三昧」に記載)

チェックアウトが11時なのでずるずる居ついてしまいそうですが
10時20分、ようやく出発。
心配していた寒波は通過したようですが強い風が残ります。
宿の方が寒い中、見送って下さいました。

地道を伝って龍野市に向かいます。一時間弱の道のりです。
龍野城を探し当てますが年末で門が閉まっています。
「・・・ここまで来たのに入れないのかな・・・」
「合言葉を言ったら開いたりして」
「何?合言葉って」
「"しょうゆ??!"と聞かれたら"もろみ!"と答える」
家人とアホな会話を交わしながら進入路を探します。
城門は閉ざされていましたが、横手から入る道はちゃんとありました。

<龍野城(龍野市の看板より転記)>
 龍野城は今から500年ほど前、鶏籠山山頂に築かれたもので、
初代城主は赤松村秀でありました。
以後、赤松時代は4代続きましたが、天正五年(1577)に
信長の命により秀吉の播州征伐の軍門に降り開城しました。
その後、慶長初年に山頂にあった天守破却されたといういい伝えがあります。
江戸時代に入ると龍野城は現在地に平山城として築かれましたが、
万治元年京極高和の丸亀移転にさいして破却され、
その後十四年は天領となっていました。
寛文十二年(1672)幕命によって信州飯田から脇坂安政が五万三千石で入部
龍野城を再建しましたが、時代は既に太平の世でもあ
また外様大名でもあったため幕府の疑念に触れる事を怖れ
御殿式の築城に決したといわれ、そのため城郭と言うより
武装化した邸宅と考えていただければよいと思います。
 現在の本丸御殿は昭和五十四年に再建したものですが、
再建にあたっては当時を偲ぶ貴重な資料や現在残る
数点の古図に基づき重建したものです。
 

どんな城でも幾多の変遷を重ねているものですが「武装化した邸宅」が
最終的な落としどころだったのですね・・・

さて、先ほどの合言葉ですが、当然「醤油の町、龍野」から出たものです。
驚く無かれ、この龍野の町には「もろみ」の自動販売機が存在しているのです。
出来れば醤油屋さん・資料館巡りをしたかったのですが
年末でどこも閉館。寒いしもう帰ろうか、と相談していましたが
なぜか「野見宿彌(のみすくね)神社」に参拝してしまいます。野見宿彌命は
相撲の神さま。昨日の表米神社に続いてなにやら相撲関係に引き寄せられます。
しかし・・・・すごく高い処に本殿はありました!!






本殿・社と言うよりこれは明らかに古墳・墓陵の形態です。
石の扉を支える石垣には、宿彌が殉死の代わりに土偶を奉げなさいと天皇に進言した
故事に倣うのでしょうか、小さな小さな土偶がたくさん並んでいてかわいいのです。

山を下って開いていた御茶屋さんでもろみなどを購入。

昨日早朝から密度の濃い贅沢な遊びをさせてもらいました。
年が替わるのももうすぐです。いい加減に切り上げて家に帰りましょう。

この地域は雪彦山なども絡めてまた訪れたい場所です。

(追記)・・・(その2)に添付した写真は画質↓↓です。
   と言うのも途中でデジカメが遭難して「写×るん×す」で補充したデータなので・・・
   その顛末、データ保存ののあれこれにも壮絶なドラマがあったのですが。
   結論「家の家電もネコ化している」・・・・
   (ラベル「使役人間的生活・・・嗚呼、猫さま」)に投稿予定。

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