2010年2月23日火曜日

「よかれと思って」は仇

本日の往診は件数こそ少ないが新規が加わってかなりヘビー。
外来に来れなくなる→家人が薬だけ取りに来る
のパターンに陥った人には出張、と言うわけ。
介護保険のからみもあるしコンサルタントの側面が強くなる。
もっとも、医療のそして医師の本質はコンサルタント業だと思っているが。
投薬の手術の技術的な面ももちろん大切だが
大前提として「送り手」「受け手」の同意・合意がないと
いくら最先端・最高の技術を施してもそれはおせっかいに終わる。
今の世の中、患者も医者も情報過多で
何か余計な処で力を消耗している気がしてならない。

今日のテーマは「よかれと思って」
元来の性格に痴呆も加わって入院させれば暴力を振るうわ
思い通りにならないと当り散らして支援を拒否るわ
家族もよりつかないわで難儀しているじい様がいる。
要するにだだっ子の延長なのだが70をとうに超えてだだっ子では困る。
困るが仕事として関わる者はかかわらざるを得ない。
予想はしていたが往診も「あれもいらんこれも気に食わない」で拒否。
「薬もいらん」と怒鳴り散らすし、服薬管理もままならないため撤退。
担当のケアマネさんが自分も怒りながらも熱心に調整はしてくれているのだが。
このケアマネさんは本当に粘り強く熱心にしてくれるので
わたしも可能な限り調整には応じる。
それはいいのだが、このケアマネ氏、ぽろりと
「よかれと思ってやっているのに」全部拒否られる、と口走る。
うーん・・・
こっちの「よかれ」と相手の「よい」が一致する事ばかりではないのだけれどもなぁ・・・
熱心に仕事をするあまり相手のペースに飲み込まれている感じ。
相手がある一定以上の理解力を持って同意する方向をむかないと
こっちの「好意」もかえって仇になる。

本日は同様のパターンが3件発生する。
もう1件は病院職員の家族との問題。
もう1件は私用の出来事なのだが
途中でメールががんがん錯綜するので無視できず。
共通するのは「よかれと思って」
立場・状況としては全部違うのだが
こんな話が同じ日に起こるのはかなり珍しいな、と思う。

「よかれと思って」何かをする時のヒトの心理とは何だろう。
善意が行動の発端である事は間違いない。
それが仕事でも善意がなければ始まらないだろう。
しかしてその「善意」にはどうしても「我」が入る。
送り手も人間だから「よい事をしてあげたのだから感謝して欲しい」と思う。
意識・無意識はともかく何%かは絶対「みかえり」を期待する。
期待するのが当然だとも言う。
聖人・聖女ではないから、普通の我々は。
そこを押し返されると「ハラがたつ」
始めは「仕事だから」「親だから」「大切な友達だから」と理性で我慢するが
どこかで限界を超えるとヒートアップ。
そうなると自我と自我の押し合いになって、これは絶対に解決しない。

職員が私の部屋に来て親の相談を延々とした挙句(相談はかまわないのだが)
「よかれと思って・・・」と口走るので
「そこが邪魔!」と釘を刺す。
「あなたが"よかれ"と言う思いを抱きながら接しているうちは解決できない。
お互いの"よい"内容が違うのだから。
親といえどもそこは割り切って"よかれ"を捨てて付き合わない限り無理」
はっきりとそう言う。
そうですね・・・と言いつつも「仕事だと割り切れるけれども親だと・・・」とも言う。
その心情は分かるが、だからかえって厄介なのだ。
その親さんは疾病の後遺症がストレスになっているので
扱いが更に難しい。
外では普通の顔をして家庭内でいらつく=家族への甘えの下手な表現の
パターンにはまって抜けられない。
実はその親さんが発症した時、気がついた私が院長命令を無視して
強引に専門病院に転院させて、生きて家に帰る事が出来た経歴がある。
しかし、後遺症の出方がやや複雑だったこともあり
新たな問題を抱える事になってしまった。
・・・こんな事ならば見逃して重症化、落命させた方が
本人も家族も苦しまなかったのではないか・・・・
これは私の「よかれと思って」が結果、仇になった形。
少なくとも意識して見返りや感謝を期待したわけではない。
仕事として当然の事を推し進めたつもりなのだが複雑な思いである。
「よかれと思って」が葛藤となり
「命を救う」が新たな苦しみの火種となる。

平穏に生きるというのは実に難しい。

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