2010年2月12日金曜日

生きている?

B施設は最近、平穏無事・・・
と、思っていたら昼前に慌てた様子の電話が・・・
「××さんのN-Gチューブが詰まりました!」
流動食を注入するのに鼻孔から胃へ留置している管ね。
まあ・・・そろそろ交換時ではあったので繰り上げて交換しても・・・
「じゃあ、○○さんも一緒にお願いしていいですか!?」
いいですよ・・・施設の送迎の御都合にあわせてどうぞ・・・・

昼の注入が出来なくなったのであわててかっ飛んできた。
交換自体は大した手技ではない。
ただ、一応、レントゲンで管の先端確認をしなくてはいけないなど
終了までそれなりの時間がかかる。
昼休みにかかってしまったので手薄。
はっきりとは言わないが休憩時間を施設の高齢者にとられたくない
と態度に出す看護師だっている。
やりにくいなぁ・・・・

処置終了、確認OKで送り出す。
遠ざかる送迎車を見送りながら改めて疑問が・・・
「あれっ?あの二人、なんでN-Gチューブなんて入っているんだ?」
私が赴任する遥か以前から注入を続けている人たちで
私はその辺の経緯を知らない。
脳梗塞後遺症なんかで食物を飲み込めない→N-Gチューブか
胃ろうから栄養剤を注入して生命を維持するしかない
そのへんの流れなのは間違いないが・・・

他の施設や病院でもよくこんな問題に行き当たる。
精神・人格は荒廃し、眠り続けるかうめき続けるか。
どう予防策をとっても繰り返す皮膚トラブルと
進行する関節の拘縮。
面会に来る家族はいないか、来ても
孫の写真なんかを周りの壁に貼って励ましたつもりでそそくさと帰る。
生きている?
これって生きていると言うのだろうか?

人口呼吸器と同じで
注入食管理もいったん導入してしまえばはずす事が出来なくなる。
はずせば「餓死」するからだ。

「体が温かくて心臓が動いていればそれでいい」
そう言い切る家族もいる。
器械に囲まれ管だらけになってもいいんだそうだ。
「一秒でも一日でも長く"生かす"のが家族の努めだし医者の仕事だ」
昔、そんな風に言われた事もある。

家庭、施設、病院。
それぞれの立場がありその時の状況がある。
だから一概に決める事は出来ないが
「その人の人生の質」を配慮しないで
機械化した環境を与え空虚な延命行為を続ける事に
もう少しは懐疑的になってもいいんじゃないかとよく思う。
そして「死んだ」のに「殺された」と文句をつける家族は
普段、ろくに見舞いにも、ましてや看護・介護にタッチしない
立場の人が多いのも事実だ・・・・

「死ぬ」前にちゃんと「生きて」きたのか?
他人にあれこれ言う前に自分がちゃんと「生きて」いる自信と確信があるか?

それが大切ではないんだろうか。

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